『シン・ウルトラマン』予想以上の大ヒット!ポカポカの感情にクギ付け!?


 公開からわずか3日で観客動員数64万人、興行収入9.9億円を突破する大ヒットを遂げている「シン・ウルトラマン」。その企画・脚本を務めたのは、ご存じ「エヴァンゲリオン」シリーズ監督の庵野秀明。SNS上では両作の共通点や、「ウルトラマン」の「エヴァ」への影響の再発見について盛んに論じられている。

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 筆者も「シン・ウルトラマン」のキャラクターを「エヴァ」になぞらえることで、より深く人物像が捉えられることが分かってきた。なんなら、「エヴァ」のフィルターを通すことで「シン・ウルトラマン=百合」という回答がおのずと立ち上がってきたばかりか、「シン・ウルトラマン」において批判が続出したシーンの誕生理由まで解明できてしまったのだ。その理由を記していこう。

【※以下、決定的なサプライズ要素は避けていますが、「シン・ウルトラマン」の一部ネタバレに触れています】

●ウルトラマン=綾波レイ説

 「シン・ウルトラマン」で斎藤工演じるウルトラマンこと神永新二は、社交性がなく感情の表出に乏しい存在として描かれている。人の姿形をしているが実は人ならざる存在であり、だからこその孤独を深めていることも含め、綾波レイらしさが存分にあるキャラクターと言えるではないか。

 もちろんウルトラマンと同化する前の神永は人間の男性であり、キャラ名やシャツの着こなしから碇シンジに重ね合わせる方もいるだろう。だがシンジは内向的であっても社交性がないわけではないし、ウルトラマンの種族も(ウルトラの母はいるが)ジェンダーをあまり感じさせない存在であるので、やはりより近いのは綾波レイだと思うのだ。

 本作の批判的な意見に「ウルトラマンが人間および禍特対のメンバーを好きになる描写が不足している」ことがあるが、その“好き”を「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」における綾波レイの「碇君と一緒にいるとポカポカする。私も碇君にポカポカしてほしい」に近いものと考えれば納得がいく。

 好きという感情をうまく言語化できない、そもそも好きになる理由も、それが好きという感情なのかもどうかも分からない、だけど幸せになってほしいし、何かをしてあげたい。劇中のウルトラマンが人間および禍特対のメンバーに抱いていたのは、実はそのような「ポカポカ」な感情だったのではないか。「好きかどうかも分からない」「でも気になるし、守ってあげたい」もまた、百合作品ではよく見かける関係性だ。尊い、尊いではないか。

 また、ウルトラマン=渚カヲルと捉える向きもSNS上で散見される。彼もまた綾波に似た出自でありながら、人間である碇シンジに巨大感情をぶつけ、そして導く存在であるので、本作がBL的な側面を備えていると言っても過言ではない。拡大解釈、私の好きな言葉です。

●浅見=アスカ+ミサト説

 長澤まさみ演じる浅見弘子は、「エヴァ」で言うところのアスカに近い印象も持つ。声を荒げて命令する高飛車な印象はもちろん、自身の意図に反してバディを組ませられる過程も似ている。

 実際の本編ではほとんどバディ関係を築けておらず、「瞬間、心、重ねて」的な訓練シーンもほぼなかったのは残念だが、シンジ以上に心を開きにくい綾波レイとバディを組むとなれば、一本の映画で打ち解けるには時間が足りなかったのだと納得もできる。

 はたまた、浅見には葛城ミサト的な「残念な美人」ぶりも見て取れる。彼女の「自分以外のぶんのコーヒーを入れないなんて気が利かない」という物言いや、「同僚の尻を2度もパンッと叩く」セクハラ行動には批判も多いが、表向きは立派な大人だが「中身はオヤジ」な美人像は、おそらく庵野の女性の好みがものすごく反映された結果ではないだろうか。

 ともかく、社交性がない綾波レイと、アスカ+ミサト的なイケイケなキャラの関係性……それはもう、尊いに決まっているのだ。だが、尻を叩くのはやめてほしい。

●セクハラ描写が生まれた理由

 観客からの批判が集中した「斎藤工が長澤まさみの匂いを執拗に嗅ぐ」シーンも、「:破」「シン」でのマリがシンジの匂いを嗅ぐ場面を筆頭に、「エヴァ」における隠喩的な要素をほうふつとさせる。

 過去にもウルトラシリーズにおいてウルトラマンへの憧れや恋愛に近い感情を抱く女性キャラクターはいたが、今回の「シン・ウルトラマン」ではそれを少し超えた、エヴァのように性をほのめかすシーンをあえて入れ込もうとしたようにも思える。

 「エヴァ」新劇場版シリーズにおいても「女性キャラの胸がやたらと揺れる」様などはしばしば批判の対象となっていたが、アニメーションである「エヴァ」に比べ、今回のような実写作品では生々しさが悪目立ちしすぎていると思う。「エヴァ」では性的なシーンも思春期の少年の鬱積した心情とシンクロしていたのだが、対して「シン・ウルトラマン」では作劇上もほとんど必要のないものになっていたし、どのような理由であれウルトラマンという作品でセクハラ、あるいはそれに類するシーンを入れてほしくなかったというのが正直なところだ。

 今作での性的なシーンは、先ほど掲げた百合の波動との食い合わせも悪いと思う。もちろん百合作品にも性的な描写が含まれることはあるが、どんなジャンルであれ無批判にセクハラ描写を持ち込んで良いことにはならない(一応、メフィラスによる批判的な自己言及はあったが)。百合大好き勢としても、まことに遺憾である。

●「シェイプ・オブ・ウォーター」をやりたかった説

 今回の「シン・ウルトラマン」が、ギレルモ・デル・トロ監督作「シェイプ・オブ・ウォーター」のような内容を、ウルトラマンという題材でやりたかったのではないか、という説もある。「シェイプ・オブ・ウォーター」は童話「人魚姫」の男女を入れ替えた、映画「大アマゾンの半魚人」の二次創作のような内容で、異なる種族間の愛を、性的な関係も含めはっきり描いた作品だ。

 ただ、そちらは日本ではR15+指定されたことからも分かる通り、比較的大人向けの内容であり、観客が生理的な拒否反応を覚えてしまうことも見越した上で、それでもなお人間と異なる存在への思いを描くことに主眼を置いた作品であった。

 対して「シン・ウルトラマン」は子どもを含む広い観客層が触れる作品であり、機微に欠けるあからさまな描写に多くの観客が批判をぶつける結果になってしまったのは致し方がないだろう。とはいえ、「パシフィック・リム」でも知られるギレルモ・デル・トロ監督は「ウルトラマン」を含め日本の特撮の大ファンでもあり、お互いにトリビュート的ともいえる作品を目指したのではないか、と思えるのは感慨深い。

 さらに余談だが、樋口真嗣監督による「シン・ウルトラマン」の公開日である5月13日より、荒木哲郎監督によるアニメ映画「バブル」の劇場上映もスタートした。くしくも、「進撃の巨人」の実写映画版と、アニメ版それぞれの監督による最新作が同日に公開されたのだ。

 「バブル」は劇中で語られている通り「人魚姫」が物語のモチーフになっていて、「惑星ソラリス」のように姿形を変えるヒロイン像は綾波レイを思わせるところもある。奇妙な共通点をもったこの2作を、合わせて見てみるのも面白いだろう。

(ヒナタカ)



(出典 news.nicovideo.jp)

ウルトラシリーズ > シンウルトラマンシンウルトラマン』は、2022年5月13日に公開された日本のSF特撮映画。1966年に放送された特撮テレビドラマウルトラマン』を現在の時代に置き換えた「リブート」映画であり、タイトルロゴには「空想特撮映画」と表記される。円谷プロダクション、東宝、カラー
49キロバイト (6,065 語) - 2022年5月21日 (土) 13:52


(筆者コメント)
正直、ウルトラマンがここまでヒットすると思っていませんでした。「どうせ観に行くのはウルトラマン好きか特撮ファンだけだろう」と考えていた自分が恥ずかしくなります。とても考えさせられる内容となっており、言葉は喋れなくとも何となくウルトラマンの思いが伝わり、じんわりと来る良作だと思います。さて、シン・仮面ライダーとかやったらどうなるのやら・・・ww

<このニュースへのネットの反応>

ウルトラマンが人間および禍特対のメンバーを好きになる描写が不足している←ウルトラマンにそんなもの求めてないし時間も足りない。ただ個人的にザラブはいらない。最初からメフィラスが日本政府との交渉役として出てきてくれればよかった。





別にウルトラマンは禍特対のメンバー好きになったわけじゃないよ。たまたま自分の身近にいた人間が禍特対だったから知的好奇心をくすぐられる地球そのものを救うために勝手に利用しただけ


ウルトラマンが主役のラブコメとかどこに需要があるねん。俺ら淫夢厨ぐらいにしか無いやろ。


[本作の批判的な意見に「ウルトラマンが人間および禍特対のメンバーを好きになる描写が不足している」ことがあるが]それ、別にシン・ウルトラマンじゃなくても最大の謎じゃないか?なんでウルトラマンの連中こんなに地球に入れ込んでるんだ。なんなら元不良なゼロが1番宇宙全体飛び回って仕事してるぞ。


貴方の感想ですよね?以外に思うことがない記事


俺的にはシン・ウルトラマンというよりシン・メフィラスって言った方がしっくりくきた


シン・ウルトラマンは「人間を悪とするザラブ」「人間が好きでその文化や言葉も学んだメフィラス」の対比で「明確な理由もないし何かよく分からんけど人間の事がもっと知りたいウルトラマン」と言う話なんだよな。だからゾーフィが「そんなに人間の事を好きになったのか、ウルトラマン」って言う訳だ。『明確な描写が無くても、理由を言語化出来なくても好きで良い』って話なんだよ。


勝手に百合の波動を自分で見出しておきながら、『先ほど掲げた百合の波動との食い合わせも悪いと思う』ってセクハラ批判するの、お気持ち以外の何物でも無くて草も生えんよ。


いちいち面倒くさいフィルター通さないと世の中観れないのか?腐った個人の妄想なら自分のブログにでも挙げておけばいいのに。


そもそもセクハラ描写について、『実際に撮影現場で性的な描写の撮影を強要された』のならば確かに批判されるべきだろう。しかし、演者も撮影側も納得の上で撮られているのであれば『個人の主観による難癖=お気持ち』でしかない。作劇上必要かどうかなんて更に関係無いし。